私は、竹内まりやと中島みゆきの曲が好きなのだが、その時の気分によって聴き分けている。気分が落ち込んだ時は中島みゆき、気持ちが安定しているときは竹内まりやの曲を聴いている。今年に入ってからは、在宅透析から施設透析に移行せざるを得なくなり、死んだ方が楽かもしれないと思うようになった。そんなときに勇気をもらったのが中島みゆきの曲だった。2人の曲は全く異なるのだが、私にとってはどちらも生きていくには必要なものとなっている。今年に入ってからは気分が落ち込むことが多かったので、みゆきさんの曲を聴くことが圧倒的に多くなったが、気分が落ち着いているときはまりやさんの曲で心を癒してもらっている。
どうでもいいことかもしれないが、2人の綴る歌詞で違っている点に気が付いた。それは「わたし」と「あたし」の違いだった。
(竹内まりや)
♪閉ざされた ドアの中だけが わたしになれる場所♪(マンハッタン・キス)
♪明るいだけが取り柄でも わたしだって命がけの恋に憧れることがある♪(純愛ラプソディ)
♪わたしを育てたこの町に 新しい風が吹いたら♪(明日の私)
(中島みゆき)
♪泣きたい夜に一人はいけない あたしの胸においで♪(泣きたい夜に)
♪常夜灯が点いているから あたし泣かないわ♪(常夜灯)
♪あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた♪(ファイト!)
私は男なので自分のことを「あたし」とは言わない。それなのでみゆきさんの曲はより異性を感じることができるし、「あたし」といった響きはみゆきさんの曲では欠かせない言葉だと思う。でも、まりやさんの歌詞はどうしても「わたし」であってほしい。