旧国名の付く駅を訪ねる旅(再訪)

伯耆大山駅(2019年11月20日

 いつもは一人旅が基本の私だが、今回は妻との旅となった。岡山で新幹線から乗り継いだ、特急「やくも」は伯耆大山駅には停車しないので米子でおりて、鳥取行の普通列車で到着した。前回この駅を訪れたのは1983年3月だった。大阪から夜行急行「だいせん」で夜明け前に到着した。とにかく寒かった記憶がある。山陰特有のどんよりとした天気のせいもあるが、季節は前回とは違うが今日も寒い。早々に写真を撮り終えると、今回の私の「旧国名の付く駅を訪ねる旅」は終了した。
 今回の旅はこれからが本番となる。今日は足立美術館を見て、出雲大社へ参拝し、竹内まりやの生家の竹野屋旅館に宿泊する予定である。竹内まりやの曲と歌唱力はすばらしいと思うが、それ以上に彼女の「生き様」に私は魅力を感じている。そんな彼女の原点である生家を訪ねて何かを感じ取ってみたいと考えている。しかし本音を言えば、竹内まりや不定期であるが生家によく帰省しているそうである。ひょっとして奇跡的にまりやちゃんの姿をこの目でみることができるかもしれない。そんな子供じみた期待をしている自分が恥ずかしいが、この歳になっても心をときめかしてくれるアイドルがいることは悪いことではないと考えている。今後はまりやちゃんの「追っかけ」として残された時間を過ごしていこうと思っている。



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(2019年11月20日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(再訪)

飛騨金山駅(2019年9月28日)

 

 今回の旅は事前の指定席予約が必要なため、旅行日の前日の自宅での透析は失敗が許されない。しかし今まではあまり操作ミスなどで透析が出来ないことは年に数回ある程度であったが、このところ慣れによる油断からか、つまらないミスで透析が出来ないことが続くようになった。そのため、金曜日に血液検査も兼ねて施設で透析をしてもらっている。そのような理由から本来であれば平日に旅に出たかったのだが、仕方なく土曜日に行くことになった。

 新神戸駅から新幹線で新大阪駅まで行き、8時7分発の「ひだ25号」に乗る。土曜日ということもあるのか、乗車率は90%くらいであった。中年女性のグループが何組か乗っていた。朝から缶ビールやハイボールを何杯も飲んでおしゃべりに夢中である。いつものことであるが、おばさんパワーのすごさを実感する。特急列車なのだが、気動車ということもありスピードが遅く感じられる。岐阜で名古屋からの「ひだ5号」と併結し、ようやく高山線に入る。美濃太田を出てしばらく走ると飛騨川の流れが車窓にあらわれ、飛騨金山駅には11時10分に到着した。

 前回この駅を訪れたのは、私が24歳の時で今から37年前のことになる。一つ手前の下油井駅で降りて飛騨川沿いの国道を歩いた。その当時の私は社会人2年目で、新卒で入った信用金庫を1年でやめて第二新卒として入った会社にもようやく慣れてきたころであった。プライベートでは付き合っている彼女はいなかったが、知人に3歳年上の女性がいた。彼女は美人であったが背が低くどちらかというと私の好みのタイプではなかった。彼女と会って話した機会はそれほど多くはなかったが、私の趣味、いわゆる有名観光地に行くでもなく、ただ鉄道に乗って名もない駅でおりて歩く旅、若い女性であればあまり関心のある分野ではないはずのことなのに、彼女はなぜか興味を示してくれた。私の鉄道の旅のことを話すことができる唯一の女性が彼女だった。そのようなことがあったからかも知れないが、私の心の片隅に彼女の姿が消えずに住みついていた。それは恋愛感情といったものではなかった。しかし、上手く言葉では表現できないのだが、この人と将来、一緒の人生を歩む可能性がゼロではないといった不思議な感情を当時の私は持っていた記憶がある。

 つるべ落としの秋の日と競争するように私は国道を少し急ぎ足で歩いたが、飛騨金山の駅に着いた頃にはあたりは少し薄暗くなっていた。帰りの列車まで少し時間があったので私は駅近くを散策した。すっかり暗くなった駅前通りの角を曲がった路地に小さな惣菜屋さんの灯りが目に入った。空腹を覚えていたので私はさつまいものてんぷらを買った。新聞紙に無造作に包まれたてんぷらを私はバックに入れて、飛騨金山駅に戻った。列車のボックスシートに座ると私はすぐに油でにじんだ新聞紙の包みからさつまいものてんぷらを出してほおばった。私の手は油でべっとりとしてしまい少し気持ち悪かったが、そんなことよりも空腹の私にはこの上もないご馳走に思えた。窓の外は暗い闇の連続で、たまに小さな集落の灯りがちらりと車窓に姿をあらわした。

 

 飛騨金山駅でおりて駅前通りを歩く。以前に訪れた時の記憶はほとんど残っていなかったので、初めてきた街のように感じる。とりあえずあの惣菜屋さんを探すことにして、私は駅前通りから細い路地に入った。

 

 路地に入るとなぜかそこにはセピア色の世界が広がっていた。そして少し歩くとあの時の惣菜屋さんがあった。不思議なことに店は昔のままだった。私はうれしくなってさつまいものてんぷらを買った。そして包装もあの時と同じ新聞紙だった。帰りの列車の中で食べるため私はバックの中に入れた。駅に着いたのはお昼前のはずだったのに不思議なことにあたりは薄暗くなっていた。まるで黄昏時のようになっていた。いつのまにそんなに時間が過ぎてしまったのだろうか。私は急ぎ足で駅に向かった。薄暗くなった駅前通りに若い女の人が立っていた。人通りのない黄昏時のこんな田舎街に若い女性がいることに少しおどろいた。私は歩く速度をゆるめた。若い女性の顔が黄昏時の中でも少しづつみえてきた。どこかでみたことがある人だった。遠い記憶を呼び覚ました。私の目の前にいるボブカットの小柄な女性は、私が若かったころに心の片隅に住みついていたあの彼女だった。彼女とはもう30年近く会っていない。本来であれば64歳になっているはずなのに、彼女は昔のままで若くてきれいだった。27歳の彼女が今まさに私の目の前にいた。なぜ彼女はこんなところにいるのだろうか。私はパニック状態になってしまった。頭の中の思考力が停止してしまった。あり得ないことであるが、彼女はこんな田舎街で私のことをずっと待ってくれていたのだろうか。絶対にそのようなことはあり得ないと思いながらも私は驚きと感動を隠すことができなかった。私は動揺しながらも勇気をふりしぼって彼女に声をかけた。自分でも声が震えているのがわかった。

 

「長い間待たせたね。」

 

 彼女は私の方をじっとみつめていた。そしてやさしく微笑んでくれた。その時彼女の唇がかすかに動いたが、何を言ったのか聞き取れなかった。けれども言葉など私にはもはやどうでも良かった。あたたかなやさしい気持ちがこみ上げてきた。私は彼女の体に触れようとそっと手を差し出した。しかしその時、セピア色の景色が少しずつ薄れていき普段の色に戻っていった。それと同時に彼女の姿が少しずつ消えていった。彼女の姿が完全に消えた後に私の目に入ってきたのは、秋の昼下がりの飛騨金山の駅だった。

 

 美濃太田行の2輌編成のディーゼルカーに乗る。座席に付くと私はすぐにバックの中を見た。しかし新聞紙に包んださつまいものてんぷらは入っていなかった。忘れかけていた懐かしい彼女に出会えてうれしかった。都合の良い話かもしれないが、彼女とはこれでさよならをするのではなく、又、私の前にあらわれて欲しい。その時は27歳ではなく今の彼女に会ってみたい。彼女は今どんな人生を送っているのだろうか。ぼんやりと車窓をながめる。飛騨川の流れが先ほどよりも少し穏やかになっているように思えた。

 

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(飛騨金山駅前通り)

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(駅近くの金山橋からみた飛騨川)

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(2019年9月28日撮影)

 

 

旧国名の付く駅を訪ねる旅(再訪)

 

 

コウノトリの郷駅*但馬三江駅(2019年8月26日)

 

 先週までの猛暑から一転、少し秋めいてきた。青空が心なしか澄んで見える。宝塚から特急「こうのとり3号」でスタート。私が乗った2号車指定席車両の乗車率は50%程度。朝から缶ビールを飲みながら弁当を広げている観光旅行客と書類に目を落としているビジネスマンらしき人たちが共存していた。篠山口駅でビジネスマンらしき人が下車。大阪からであれば「丹波路快速」を利用してもそれほど乗車時間は変わらないはずである。自由席であればまだわかるが、わざわざ指定席を取ったのは新幹線からの乗り継ぎであろうか。

 豊岡駅で京都丹後鉄道線に乗り換える。12時ちょうどに西舞鶴行のディーゼルカーが1輌で発車。乗客は10人程度。丸山川の橋梁を渡り、トンネルを抜けるとあっという間にコウノトリの郷駅(但馬三江駅)に到着した。この駅で降りたのは予想通り私一人であった。

 前回この駅を訪れたのは1985年の正月だった。豊岡駅前のビジネスホテルに泊まり、その夜は城崎温泉の外湯に入りにいった。豊岡駅から乗ったのはディーゼル機関車がけん引する旧型客車の列車だった。次の玄武洞駅に停車すると静寂が車内を支配した。外は一面の雪景色。冬の旅の旅情を体全体で感じることができた。翌日、豊岡のビジネスホテルから歩いてたどり着いた但馬三江駅は雪ですっぽりと覆われていた。

 駅舎は昔とあまり変わっていないようにも見えるが、前回訪れたのが真冬で、あたりの風景はほとんど雪で隠されていたので、印象が全く異なる。無人駅であるが駅舎は「ぽっぽや」と書かれたそば屋さんになっていた。しかし店の入り口には「ぽっぽやは7月8月は暑さの為休みます。再開は9月」と手書きで書かれた紙が貼られていた。そばを食べることはできなかったが、のんびりとしておおらかで、まさに今、流行りの「働き方改革」の先端を走っているようで好感が持てる。私も60歳を過ぎてから仕事は「おまけ」で自分の好きなことを最優先にする生き方を実践している。この駅は2015年に但馬三江駅からコウノトリの郷駅に改名されてしまったが、副駅名として但馬三江駅の名称は残った。「但馬」を冠する駅はこの駅しかなかったので、コウノトリと同様にかろうじて絶滅をのがれることができた。

 ホームの向かいにはうっそうとした竹林が茂っており、大きな竹が風にゆられてしなっている。その姿は木というよりも得体のしれない巨大な生き物が体を大きくくねらせているようで、あたかもスタジオジブリのアニメの世界に迷い込んだみたいな錯覚におちいる。不思議なファンタジーの世界に引き込まれてしまった私であったが、豊岡行の列車の接近を告げる駅のアナウンスに現実に引き戻される。しかし、ホームに入ってきた1輌のディーゼルカーはうすい黄色で「となりのトトロ」に出てくるネコバスにみえてしまった。ふたたびファンタジーの世界に引き戻された私であったが、今日はこれから昔の会社員時代の先輩社員で私の鉄道趣味の師匠でもあるAさんと城崎温泉の外湯に入りに行く予定である。私が乗った「ネコバス列車」はわずか4分で豊岡駅に到着。JRのホームにAさんの姿をみつける。私はやっと現実の世界に戻ることができた。

 

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但馬三江駅の表記が残っていた)

 

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(駅のそば屋さんは夏休み中だった) 

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(ネコバスにみえてしまった豊岡行のディーゼルカー

(2019年8月26日撮影)

 

旧国名の付く駅を訪ねる旅(再訪)

近江塩津駅(2019年7月29日)

 梅雨は明けたが朝から曇天で、今にも雨が降ってきそうな天気の中、家を出る。当初は芦屋駅から「新快速」敦賀行に乗る予定であったが、芦屋からでは座れないと考え、神戸駅から乗ることにする。私の予想通り神戸駅からはなんとか4人掛けのボックスシートの一席を確保することができた。三ノ宮駅を出ると天気が回復し、窓から夏の陽が差し込んできた。京都からは4人掛けのボックスシートを一人で独占することができ、ようやく旅行気分になってきた。湖西線の旅では琵琶湖を車窓から眺めるのがいつものこととなっていたが、今日は進行方向左側の席のため、比良山地の風景を眺めることにする。蓬莱駅を通過した電車の車窓からあざやかな緑色の田んぼがまるでジュータンのように続いている。そしてその先にみえる比良山地の山々に薄雲がかかっている。

 近江今津駅で後ろの8輌の切り離し作業のため10分停車。その間に特急「サンダーバード」が勢いよく通過していく。敦賀行の電車は4輌編成となって発車。永原駅を出て長いトンネルを抜けると北陸線の線路が寄り添ってきて、近江塩津駅に到着。数人が下車したが、私以外の乗客はすべて同じホームの向かいに停車中の北陸線米原経由の姫路行の電車に乗り換えている。濡れた狭い階段を降りて改札に向かう。ひんやりとした空気が肌にふれる。まるで鍾乳洞に入っていくような気分になる。無人の改札を抜けると待合室があり中に入ると「お食事処給食屋さん」と書かれた立派な木の看板がかかっているが、シャッターは閉じられたままであった。2年ほど前まで食堂として営業していたそうであるが、今は待合室とレンタサイクル用の自転車置場になっていた。

 前回この駅を訪れたのは1983年7月、私が社会人となって3年目の夏だった。米原駅から北陸線の各駅停車の列車に乗り、余呉駅で降りた。余呉湖の湖畔を少し散策したあと、次の近江塩津駅を目指して歩き始めたが、北陸線と並行して通る道がなく、あきらめて余呉駅に戻り、次の列車に乗った。

 その日の夜は私のいとこが勤務する会社の琵琶湖のほとりにある保養所に親戚一同が集まり一泊した。当時の大手企業は自前の保養所を日本全国の主要な観光地に所有しており、社員やその家族の福利厚生の一環として当たり前に運営していた。しかし現在、企業が自前で保養所を運営しているケースは少ないのではないのだろうか。あの夏の一夜をにぎやかに過ごした親戚の人たちも、私の父を含めて何人かはあちらの世界に旅立っていった。30数年のときの流れが私を取り巻く環境を大きく変えてしまった。今はあのときのように親戚が一同に集まって交流する機会はなくなってしまった。

 

 夏草や兵どもが夢の跡

 芭蕉の句が頭をよぎる。にぎやかな夏休みの一夜の宴が今となってはまぼろしのように思える。昼下がりの無人のホームではせみ時雨の音だけが鳴り響いていた。

 

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(食堂は閉店となって、待合室とレンタサイクル用の自転車置場となっていた)

(2019年7月29日撮影)

 

 

 

 

 

 

旧国名の付く駅を訪ねる旅(再訪)

尾張一宮駅(2019年7月1日)

 天気予報では雨であったが、出かけることにした。現在、私は週1日しか働いていないので旅に出ようと思えばいつでも出かけることができるのであるが、普通の人と違うのは在宅血液透析をしていることである。一見すると施設透析と違って決められた曜日や時間の制約がないので自由なようにも思えるのであるが、在宅での血液透析はすべて自分で行うことになるので、血管に針を刺すいわゆる「穿刺」がうまくいかなけれな透析を行うことができず、次の日にもう一度チャレンジするか、施設で透析をさせてもらうことになる。そのため、事前に座席指定を取っていると急遽キャンセルしなければならない事態が発生する。そのような事情から今回の旅のように当日に自由席切符を買って出かけることができる旅は気楽で、前日の透析のプレッシャーが少なくて済む。こんなことは経験者にしかわかってもらえないことであると思う。

 新大阪駅始発の東京行「ひかり号」に乗る。私が乗った4号車自由席の乗客はまばらだった。各駅に停車し、岐阜羽島駅で下車し名鉄線に乗り換える。2両編成の電車で笠松まで行き、本線の豊橋行で名鉄一宮駅に着いたのはちょうどお昼の12時であった。7年前にできた立派な駅ビルの温度計をみると28℃と表示されていた。梅雨空で曇っているので日差しはないが蒸し暑い。昼食の店を探すため街を歩く。立派なアーケードのある商店街に入ると、地元のFM局か何かわからないのであるが、女性DJの明るい声が響いている。しかしその明るい声とは対照的にほとんどの店のシャッターは閉まったままで、人通りもまばらである。適当な店を見つけることができなかったので駅に戻ることにした。

 駅ビルの中にあるカフェで日替わりランチを食べて、JR尾張一宮駅のホームに上がる。前回この駅を訪れた時の帰りは、名古屋から関西線の普通列車に乗った。途中、笠置駅を出た列車が木津川の流れに沿って走っていた時のことだった。木津川の流れのはるか彼方に見える山波の稜線にあざやかな夕焼け空が広がっていた。はるか昔の万葉の人々も見たかもしれない原風景、荘厳なまでの幻想的な美しさにただただ見とれてしまった。あれからちょうど35年の歳月が流れた。その後何度も旅をしたが、あの時の車窓風景をしのぐ景色に私は出会っていない。

 国鉄時代と違って格段にきれいになったが、大都市近郊によくある画一的なタイプの尾張一宮駅のホームで名古屋方面行の電車を待つ。のどかな平日の昼下がり、梅雨空の隙間から薄日が差し込んできた。

 

 

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 (駅近くにあった真清田神社)

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 (2019年7月1日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(再訪)

播磨下里駅(2019年5月7日)

 令和の改元の祝日を含めて10連休となった今年のゴールデンウィーク明けの日、昨年までなら会社に出勤しなければならなかったのだが今年はその必要がなくなった。そのようなこともあり、世間の人々が憂鬱な仕事再開のためにいつもの通勤電車に揺られているであろう時間に、私はのどかな田園風景の中を走る神戸電鉄のがら空きの車内にのんびりと座っていた。今日は神戸電鉄の終点の粟生駅から北条鉄道に乗って、播磨下里駅を訪れる予定である。神戸電鉄粟生駅の改札を抜けて跨線橋を渡ると、北条鉄道ディーゼルカーが一両でホームに停車していた。私の予想に反して幸運にもクロスシートの車両だった。

 11時7分、定刻に北条町行が発車。乗客は十人程度。五月晴れの田園風景が車窓いっぱいに広がっている。田原の駅のホームには小さな鯉のぼりが風にゆれていた。法華口駅のホームには立派な三重塔が建っていた。この駅の名前は法華山一条寺への入り口といった意味でつけられたそうであるが、この駅から一条寺までは5㎞ほどあり、鉄道を利用する人はあまりいないようである。いずれにしても小さくても格式のある駅である。粟生からわずか13分でディーゼルカー播磨下里駅に到着した。この駅を前回訪れたのは1984年、当時は国鉄北条線で会社の同僚のN君と一緒に訪れた。

N君は北条線だけでなく、高山線氷見線小海線等にある旧国名の付く駅を訪ねる旅に付き合ってくれた。そのほとんどが「青春18きっぷ」を使った旅だった。今となってはどの旅もなつかしい思い出として残っている。

 播磨下里駅は昔のままであったが、ホームには花壇が作られており、国鉄時代よりもきれいに整備されていた。そしてどういった関係があるのかわからないのであるが、漂泊の俳人である山頭火の句碑がホームに建っていた。

 

炎天のレールまっすぐ

分け入っても分け入っても青い山

うしろすがたのしぐれてゆくか

 

 山頭火の代表的な句が刻まれていた。若かったころの私は山頭火の俳句に傾倒していた。定型の俳句にはない魂の叫びが込められており、私の心に強く響いた。そして山頭火の自由奔放な生きざまに甘いあこがれをいだいていた。山頭火は59歳で亡くなったので私は山頭火より2年も長生きしていることになる。

 私が腹膜透析を始めて今年で16年になる。途中から血液透析との併用となり、最近は洗浄のみで体内に透析液を貯留することはなくなったが、カテーテルは体内に留置したままである。腹膜透析開始のための手術をしたのは、息子が小学校に入学したばかりの頃であった。そして息子は今年の春、大学を卒業して社会人となった。そして来週、私は腹膜透析を終わらせるためのカテーテルを抜く手術を受けることになっている。長い期間使用していたため、手術の痛みと術後の体調がどうなるのか不安である。けれども腹膜透析のおかげで食事制限や水分制限があまりなく、16年間で一度も腹膜炎を起こさなかったことには感謝している。

 播磨下里の駅舎を出て少し歩く。ほんとうは次の法華口駅まで歩きたかったのだが、北条鉄道の線路に沿っている道路がなく、かなりの遠回りになるため、あきらめて次の粟生行の列車で戻ることにした。

 昼前の無人のホームでは時が静かに流れていた。ほどなくさきほど乗ったディーゼルカー北条町駅から折り返しの粟生行となってホームにすべりこんできた。新緑の木々と五月晴れの青い空がまぶしかった。

 

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(駅舎は昔のままであったが自動販売機が2台置かれていた)

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山頭火の句碑)

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 (国鉄時代の駅名標が残っていた)

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(2019年5月7日撮影) 

 

 

旧国名の付く駅を訪ねる旅(再訪)

備中高松駅(2018年11月20日

 この時期に旅に出るのは7年ぶりになる。7年前の旅では飯田線全線を乗りとおした。飯田駅で特急「伊那路4号」の発車までの時間つぶしに途中下車して街を目的もなく歩いたが、クリスマスや歳末を控えた賑わいはなく、地方の小都市の衰退を身に染みて感じることになった。特急とはいえわずか3両の編成で走る「伊那路4号」が飯田の街並みをあっという間に走りすぎて、天竜川に沿って走る頃には冬の陽が翳りはじめた。車窓からの美しい景色はすこしずつ闇の世界に沈んでいった。しかしわずかな光が残る天竜川の濃い緑色の水面は、幻想的な雰囲気を醸し出していた。さびしいのだが初冬の旅情を感じることができた旅だった。

 今回は岡山県吉備線にある備中高松駅を訪ねる。岡山駅吉備線のホームで待っているとやってきたのはなつかしい国鉄色のキハ40型の2輌編成の気動車だった。一両は昔のままのクロスシートで、もう一両はオールロングシートに改修されていた。それはそうとこの路線は「桃太郎線」となっているようだが、私の中では吉備線総社行の列車に乗りに来たのである。JRになってからこのように路線に愛称名をつけて観光客を誘致しようとしているのかもしれないが私はどうしても馴染めない。

 吉備線総社行は12時11分、定刻に発車。岡山の住宅街を走っていたが、大安寺駅を出ると車窓に田園風景が広がった。前回の旅では備中高松駅のホームで写真を撮っただけだったので、今回は下車して周辺を歩く予定である。

 閑散とした備中高松駅の駅から少し歩くと最上稲荷の大鳥居にたどり着いた。それにしても大きい。高さは27.5メートルもあり、昭和47年の建立当時は日本一だったそうである。いままで私はこの鳥居は駅名から「高松稲荷」とばかり思っていた。今回の旅で初めて「最上稲荷」の鳥居であることを知った。そして最上稲荷の本殿はここから2㎞ほど先にあるようである。本殿まで歩いてみようかとも思ったが、私は鳥居に手を合わせて駅に戻ることにした。

 毎年この季節になると私には読みたくなる小説がある。それは遠藤周作の「四十歳の男」と題した短編である。12月に40歳を目前に3度目の肺の手術を受ける小説家の男が主人公となっている。病院では一人の人間が死んでも何事もなかったかのように日常の営みが続いていく。病室の窓からみえる街ではいつもどおり自動車やバスが走っている。あたりまえのことなのだが、みんな何かを誤魔化して生きている。主人公の男はこうした思いを抱きながら手術に臨む。この作品を私が初めて読んだのは大学生のときであった。その後、就職、結婚、子供の誕生、転職等私の人生の節目でこの作品を読んだ記憶がある。そして私も来月、12月に心臓の手術を受ける。この小説の男より20年も長く生きているのに、自分の人生の方向性を見出せないでいる「六十歳の男」である。

 備中高松駅のホームに岡山行の列車が入ってきた。なつかしい国鉄色気動車なのだがこの列車の余命もそう長くはないはずだ。ホームに立つ「六十歳の男」は時の流れの速さを受け入れることが出来ないでいた。

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最上稲荷の大鳥居)

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備中高松駅のホームに入線する岡山行の列車) 

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(2018年11月20日撮影)