HHD’s blog

線路のある風景

ファィト!

 私は50歳を過ぎた頃に学びに対する意欲が急速に湧き上がってきて、地元の大学の大学院の社会人入試を受ける決意をした。入試科目は「論述試験」と「口頭試問」の2つだった。私の研究テーマは「在宅血液透析患者のQOL(生活の質)について」だった。自分の透析の体験をベースにして学問的な知識を学んで、客観的に自分の透析ライフを見つめてみたかった。私は試験対策として論文を書いてみた。自分では評価できないので知人のつてで、某有名国立大学の講師の先生に採点をしてもらった。当時の私は障がい者雇用枠で会社に契約社員として雇用されていた。この講師の採点評価は辛辣なものだった。「会社で正社員になれないため、その憂さ晴らしとして大学院に行って学びたいと言った現実逃避の一種ではないか」との評価だった。確かに正直に言って私の論文の中には非正規雇用労働者の差別的待遇等に触れた内容もあり、そのように論評されても仕方がない一面もあったのかもしれない。けれども私の学びに対する意欲は真剣なものだった。そしてこの国立大学の講師が、人工透析の経験がある人であれば私も少しは耳を傾けたかもしれない。しかし、透析をやったこともない人が透析患者の辛さや苦しさなど絶対に理解できないと私は思っていたので、この講師の評価については全く参考にすることはなかった。そのようなことから私は、自分の経験だけをベースに自分なりのやり方で入学試験に臨んだ。

 
 勝つか負けるかそれはわからない それでもとにかく闘いの
 出場通知を抱きしめて あいつは海になりました
 ファィト! 闘う君の唄を
 闘わない奴らが笑うだろう
 ファィト!冷たい水の中を
 ふるえながらのぼってゆけ

 ♪

 大学院での学びは楽しかった。50歳を過ぎてからの新しいものとの出会いは人生を豊かにしてくれた。私が大学院で学んだのは「不便と不幸は同じものではない」といったことだった。透析と言った「不便」なことをしなければ生命を維持することは出来ないが、私は自分のことを負け惜しみではなく「不幸」だとは思っていない。そして自分が実体験をしたこともないのに、知識や机上の論理だけで分かったつもりになって、辛い境遇にいる人たちの心に寄り添うことが出来ない頭でっかちの人間にだけはなってはいけないことが、今の私の人生の教訓になっている。