HHD’s blog

線路のある風景

お墓に納骨できました

 今年の1月に亡くなった母の納骨を先週行いました。今までのお墓は自宅から1時間以上かかるため、年に数回しか行くことが出来なかったため、自宅のすぐ近くのお寺の敷地にあるお墓に移すことにしました。ただ手続きに時間がかかったのと、私の2度の入院等があり納骨に時間がかかってしまいました。
 新しいお墓は自宅から徒歩1分ですので、毎日お墓参りをしています。父と母が喜んでくれているなら私も満足です。


(自宅から徒歩1分のお寺の敷地にあるお墓)

天保山渡船に乗ってJR桜島駅まで行ってきました

 先ずは大阪メトロ中央線朝潮橋駅の近くにあるロイヤルホストで少し早めのランチを食べ、天保山の渡船場まで歩きました。距離にすれば2㎞弱なので大したことはないのですが、真夏並みの暑さになったので体にこたえました。天保山の渡船場は少しわかりにくい場所にありましたが、お昼の12時発の船に間に合いました。乗客は10人ほどでしたが、地元の人はほとんどおらず、外国人や私も含めて観光客ばかりでした。わずか3分程度で対岸の桜島乗り場に到着。そこからJR桜島駅まで歩きました。気候の良い時であればどうということもないのかもしれませんが、暑さには勝てませんでした。早くも夏バテモードに入ってしまいました。


ロイヤルホスト日替わりランチ 913円)


(自転車でも乗船可能で定員は80人)


天保山の大観覧車と渡し船


(JR桜島駅

春旅

 妻と二人で香川県に行ってきました。まずは金刀比羅宮へ。長い階段を上ってやっとの思いで本宮に到着しました。私はここまででしたが妻は奥社まで行ったので、私は1時間ほど待つことになりました。帰りの下りの階段では足が痛くなりましたが、何とか歩いて琴電琴平駅に着きました。

 高松駅前のホテルに一泊し、翌日は栗林公園に行きました。この地は私が小学生時代を過ごした場所で、久しぶりに私が通った小学校も見てきました。私がこの地で暮らしたのは1970年3月までだったので、もう半世紀以上も前のことです。この地を去ったときは瀬戸大橋はまだ出来ておらず、宇高連絡船の乗り場に大勢の人たちが見送りに来てくれていたのを思い出しました。連絡船の甲板で別れを惜しんで涙を流していた母も今年の1月に96歳で亡くなりました。遠い春の日の思い出が甦った旅になりました。


金刀比羅宮本宮)


琴平駅ホームに停車中の琴電の車両)


(ホテルの部屋の窓から見えた高松港


栗林公園


高松駅で買ったあなごめしの駅弁)

近くの親戚よりも近くの他人

 母が亡くなってひと月が過ぎた。家族葬だったため、親戚や知人に母が亡くなったことを知らせるハガキを出した。すぐに手紙やお花を送ってくれたのは母が施設に入るまで長年にわたり住んでいた家の近所の方たちだった。母は90歳まで華道の先生をしていたので近所には多くのお弟子さんがいたこともあったが、お弟子さん以外の方たちとも交流があったので、お花やお供え物をたくさん送っていただいた。しかし、親戚から連絡があったのは2軒だけだった。母は7人兄弟の末っ子で、他の兄弟はすべて亡くなっており、世代が代わってしまっていたのも大きな要因だったのかもしれないが、あまりにも薄情な反応に私は失望した。
 
 ことわざで「遠くの親戚よりも近くの他人」と言った言葉があるが、母の親戚はほとんどが比較的近くに住んでいる。それでこの無関心な対応である。私は「近くの親戚よりも近くの他人」だと強く思った。母の死が今後の周囲の人たちとの付き合いを考え直す良い機会となった。

さよならはるちゃん

 母が亡くなった。97歳の誕生日を間近にしてのことだった。施設で看取り介護に入ってからは、いつその時が来ても良いように心の準備をしていたが、あっけなくその時は訪れた。日曜日の深夜に施設から電話があり、母が亡くなったことを知った。翌朝、施設に行き母と対面。母は穏やかな表情をしていた。不思議と涙は出てこなかった。ただ妻は涙を流していた。妻と母とは生前あまり折り合いは良くなかった。なので私は少し意外な気持ちになったが、妻がつぶやいた一言が私の胸につきささった。

「もう喧嘩できなくなってしまったね。」

 東京から息子がかけつけて、家族3人だけで葬儀を行った。母の顔に手を触れるとひどく冷たかった。生前好きだった花をいっぱいに詰めた。私は心の中で「長い間お疲れ様でした。」とつぶやいた。そして妻と私が言っていた生前の母のニックネームを最後につぶやいた。

「さよならはるちゃん。」

お寺の今日のことば

 施設での透析の帰り、気分転換に普段とは違う道を通ることがある。その途中にあるお寺の「今日のことば」を見るのが私の習慣になっている。いろいろな人の言葉が紹介されているが、昨日は樹木希林さん、その前は森光子さんの言葉が紹介されていた。素直な心のつぶやきにしばし足を止める時間が、私の今のささやかな楽しみとなっている。

冬旅

 滋賀県の長浜に妻と二人で旅に行ってきました。近江塩津行の新快速電車は12両で米原駅に到着。ここで後ろ8両を切り離します。すると後ろ8両に乗っていた乗客がぞろぞろと前4両に移動してきたため、平日の昼前にもかかわらず車内は満員になりました。長浜でほとんどの乗客が下車。長浜が人気観光地であることを身をもって体験することになりました。


黒壁スクエアは平日だったが、多くの人でにぎわっていました。


叶匠寿庵のカフェで食べたスイーツは美味しかった。


懐かしい丸ポストがありました。


 長浜城は良かったが、帰り道で石の階段をすべって転んでしまいました。幸いけがはありませんでしたが、歳をとると注意しないといけないことを思い知らされました。

 妻とは夏の金沢以来の旅となりましたが、有意義な冬旅となりました。

高石ともやとザ・ナターシャセブン

 京都で高校時代を送った私は、近畿放送の深夜ラジオ番組「ズバリリクエスト」の熱心なリスナーでした。もう50年近く前のことですが、番組のパーソナリティだった、高石ともやとザ・ナターシャセブンの曲には大いに影響を受けました。「春を待つ少女」や「陽気に行こう」などの曲はネットで検索できるのですが、調べてもわからない曲があります。私の記憶もあいまいなのですが、次のような歌詞だったように思います。

♪ 彼を待ちながら 今年も暮れます
  幸せ知らずに 死んでゆくのかしら
 ♪

 これだけしか覚えていないのですが、どなたかご存じの方いらっしゃいませんでしょうか。なぜこの曲が気になるのかは、自分の今の境遇に重ね合わせているからだと思います。臓器移植ネットワークに登録して来年で20年になります。けれども腎臓移植手術を受けることはできていません。今年も師走になり、また移植を受けることが出来ずに年が暮れていくのか、このまま死ぬまで透析を続けていかなければならないのか。やるせない気持ちのまま今年も過ぎ去っていきそうです。

「旧国名の付く駅を再訪する旅」をキンドルで出版しました。

 国鉄時代に訪れた旧国名の付く駅を再訪する旅の記録を綴った「旧国名の付く駅を再訪する旅」を、アマゾンキンドル電子書籍本で出版しました。25の駅を再訪しましたが、昭和の国鉄時代の面影を色濃く残している駅もあれば、JRになって変わってしまった駅もありました。けれども一番変わってしまったのは私自身であったことを思い知らされた旅となりました。


キンドル本の表紙)