HHD’s blog

線路のある風景

死について考える

 私がまだ40歳の頃、いとこの葬儀に参列したことがあった。いとことは言っても生前ほとんど付き合いはなく、たまに法事で顔を合わせる程度の関係だった。葬儀も終わりに近づいた時に喪主であるいとこの奥さんと中学生の長男があいさつで前に立った。私はいとこの長男の顔を見るのはその時が初めてだった。亡くなったいとこにはこんなそっくりな顔をした子供がいたのだった。奥さんが参列者への挨拶をしている間、この少年は大勢の大人たちの視線に少し怯えたような不安な表情を浮かべたままじっと立ちつくしていた。
 この時、私は急に込み上げてくるものを抑えることができなくなってしまった。いとこの死が悲しかったのではない。もし私が死んで葬儀が行われたときに、私の息子が同じように参列者の前に立っている姿を想像したからだった。それは辛くて悲しい光景だった。ひとしきり泣いた後、私は少し恥ずかしい思いを持った。泣いているのを見られたからではない。私の涙がいとこの死に対してのものではなく、自分自身に対してのものであったから。

 葬儀からの帰りの列車の中で、特別飲みたかったわけでもないのに缶ビールを買って窓枠に置いた。暮れ始めた街のざわめきを遮断するかのように列車は規則正しいリズムで走っていた。

「40歳を過ぎたら一日に一度は死について考えろ。」

 何かの本で読んだ文章が頭に浮かんだ。それでは一体何を考えろと言うんだ。死後の世界のこと? 残された家族のこと? その時突然先ほどの葬儀での光景がおそってきた。その光景を振り払うためにもその答えを懸命に考える。しかし当然のことだが納得のいく答えなど出てくるはずもない。
 
 規則正しいリズムで走り続ける列車の窓に映るのは疲れた男の顔とどこまでも続く暗い闇だけだった。

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