HHD’s blog

線路のある風景

旧国名の付く駅を訪ねる旅(備中高松駅)

備中高松駅

 この日は暑くて体調もあまり良くなかった記憶がある。岡山で吉備線に乗り換えて、この駅で写真を撮っただけの旅になってしまったが、最上稲荷の大きな鳥居があったのは印象に残っている。

 

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最上稲荷の大鳥居)

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備中高松駅ホームに停車中の列車)

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1984年8月5日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(下総豊里駅)

下総豊里駅

 東京本社で研修があった。研修の前日が休日であったので、大阪の独身寮からの移動日を利用してこの駅への旅をした。成田線下総橘駅でおりて歩き始めた。冬枯れの荒涼とした田舎道が続いていたくらいしか記憶にないが、家並みの屋根の向こうに利根川の流れが見えたのは覚えている。この日は銚子駅まで行ったが、寒かったので早々に東京の研修所に向かった。

 

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下総橘駅から歩く)

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(下総橘ー下総豊里 屋根の向こうにみえるのは利根川

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(1986年1月26日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(若狭高浜駅)

若狭高浜駅

 前日に福井に泊まった流れで小浜線に乗った。一つ手前の若狭和田駅からこの駅を目指して歩いた。同行者のH君も私に付き合って歩いてくれた。途中の風景はほとんど覚えていないが、やたらと蒸し暑い日であった記憶がある。

  小浜線はその後電化されたが、あの当時走っていた急行列車は今はなくなってしまった。私の個人的な好みかもしれないが、この線には気動車急行が似合っていたと思う。

 

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(海水浴客で賑わう若狭高浜駅前)

 

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(若狭和田若狭高浜を走る急行列車) 

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(1983年7月31日撮影)

 

旧国名の付く駅を訪ねる旅(越前花堂駅)

越前花堂駅

 この旅は越美南線の美濃白鳥駅からバスで九頭竜湖へ向かうルートから始まった。同行者は同じ歳のH君。九頭竜湖でバスをおりて、人並みに「観光」をして越美北線九頭竜湖駅に向かって歩き出したのであるが、途中でものすごい雷雨に襲われ、国道わきの草むらに退避した。その時にたまたま通りかかったパトカーにお願いして乗せてもらい九頭竜湖駅まで送ってもらった。私もH君もびしょ濡れ状態だったので、このままだと風邪をひいてしまうので、民宿にお願いして風呂に入れてもらった。そのようなこともあって、目的地の越前花堂駅に着いたのは予定よりも遅れて、夏の長い陽も光を失い始めた頃であった。この日の夜は福井市内のビジネスホテルに泊まった。食事を終えて、静かな喫茶店でコーヒーを飲んだ。H君は日ごろからハードな仕事をしており、「こんなにゆっくりとコーヒーを飲んだのはひさしぶりや。」とつぶやいたのが今でも私の記憶に残っている。まだ二人とも25歳の青年だった。雷雨の洗礼、駆け出しの社会人としての厳しい日々、なにかほろにがいのだけれども私にとってなつかしい、忘れられない旅となった。

 

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九頭竜湖をバックにH君と撮影)

 

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(1983年7月30日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(丹波大山駅)

丹波大山駅

 のどかな春の休日だった。父の運転する車で篠山へドライブした帰りにこの駅を訪れた。何もない無人駅だった。あたたかな春の昼下がり、少しけだるい陽気の中、時間がゆっくりとながれていた。今となっては父と共有した貴重な時間であったように思う。

 

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(1983年4月9日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(近江塩津駅)

近江塩津駅

 夏の休日を利用して訪れた。一つ手前の余呉駅でおりて、歩いて近江塩津駅を目指そうとしたが道がなく、諦めて余呉駅にもどり電車で到着した。初夏の湖北の青空がまぶしかったのは今でも記憶に残っている。

  この日の夜は、私の従弟が勤務する会社の琵琶湖畔にある保養所に親戚一同が集まり一泊した。今は親戚一同が集まることはなくなってしまった。あの日の夜に集まったメンバーも私の父を含めて何人かはあちらの世界に旅立っていった。もう二度と戻らない遠い夏の思い出の旅。

 

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余呉湖の湖畔)

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近江塩津駅ホーム)

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(1983年7月9日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(因幡船岡駅)

因幡船岡駅

 夜明けの伯耆大山駅から若桜線に乗るために、鳥取方面行の列車に乗ったが、この列車はディーゼル機関車がけん引する旧型客車をつないだ編成であった。前夜の急行「だいせん」と違って空いており、4人掛けのボックスシートをひとりで占領して、早朝の日本海を眺めることができた。鳥取駅から因美線の列車に乗ったが、若桜線の分岐駅である郡家駅で乗り換えたのか、それとも若桜線への直通であったのか覚えていないが、目的地の因幡船岡駅駅名標がひどく錆びついていたのは記憶に残っている。

 

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(同行者のH君と撮影)

 

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(1983年3月19日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(伯耆大山駅)

伯耆大山駅

 仕事を終えた金曜日に、大阪駅発の夜行急行「だいせん」鳥取県への旅にでた。同行者は同じ歳のH君。私もH君もまだ社会人になって2年めということもあり、趣味の鉄道旅行にかけるお金にも限度があるため、寝台車ではなく座席車両に乗った。この夜は3連休の前日ということもあり、乗客は多かった。指定券は持っていたので座ることはできたが、4人掛けのボックスシートはすべて満席で足を伸ばすこともできず、窮屈な状態が続いた。途中、福知山で少し停車時間があったので、ホームにおりて背伸びをした記憶がある。その後も窮屈な姿勢のままだったのでほとんど眠ることはできなかった。目的地の伯耆大山の駅に着いたときは寝不足ですこしぼんやりとした状態であったが、ホームにおりるとあまりにも冷たい空気に思わず目が覚めた。そんな夜明けの伯耆大山駅のホームでH君は写真を撮ってくれた。

 

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(1983年3月19日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(土佐昭和駅)

土佐昭和駅

 伊予平野駅を訪れた翌日、宇和島から予土線の列車に乗った。どうしても1駅歩きたかった私は、同行者のAさんと一旦別れて、十川駅でおりて次の土佐昭和駅を目指して歩いた。早春の四万十川の静かな流れが印象に残っている。国道381号線を歩いてたどり着いた土佐昭和駅は何もない静かな駅だった。

 しかしその後どの駅でAさんと合流し、どのルートで大阪に帰ったのかまったく覚えていない。

 

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十川駅でおりて歩き始める)

 

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(十川ー土佐昭和 早春の四万十川

 

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(1986年3月9日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(伊予平野駅)

伊予平野

 この旅の同行者は、同じ会社の東京本社に勤務する先輩社員のAさんだった。Aさんは鉄道友の会の会員で、鉄道に関する記事をいくつも書かれている方であった。すでに国鉄全線を完乗しており、新線が開業するとすぐに乗りに行くのが決まりになっていた。この時は予讃線のバイパス線となる内山線(現予讃線)が新規開業した直後であったのでこの区間に乗るのが目的であった。Aさんとは宇和島で合流し宿泊した。

 肝心の私の目的地である伊予平野駅であるが、正直あまり記憶がない。しかしホームに停車中の列車とおばあさんの後ろ姿の写真をみると、かつてNHKで放送されていた「新日本紀行」のワンシーンをみているようで懐かしい気分になった。

 

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伊予平野駅ホームに停車中の列車とおばあさん)

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(1986年3月8日撮影)