HHD’s blog

線路のある風景

旧国名の付く駅を訪ねる旅(常陸大子駅→磐城棚倉駅)

常陸大子駅磐城棚倉駅

 この当時、私の勤務していた東京のコンピューター関連の会社での仕事はハードであった。毎日、夜10時過ぎまで必ず会社にいた。そして週に一度は徹夜勤務があった。私の1ケ月の残業時間は100時間を超えるようになった。今、社会問題となっているブラック企業と同じような気もするが、この会社では残業代は100%支給されていた。私の給与は基本給よりも残業代のほうが多いときがあったような記憶がある。私はこのままでは体を壊してしまうのではないかと考えるようになった。「転職」の2文字が私の頭をかすめるようになった。私はいくつかの会社に履歴書を出した。そのうちの1社から内定をもらったが、私は正直迷っていた。実家の両親に電話で相談した。両親は私の転職に反対だった。新卒で就職した信用金庫をやめてすぐに中途採用で入ったこの会社は、業界でトップクラスの2つの企業の合弁会社だった。こんなにしっかりとした会社にせっかく入ったのだから途中で辞めるのはもったいない、息子の私の将来を考えてのもっともな意見であった。

 そのような状況のままお盆に入った。私は関西の実家に帰らず旅に出た。水郡線常陸大子駅まで行き、そこから県境を越えて福島県に入り、磐城石井駅まで歩く予定であった。常陸大子駅から昼下がりの国道を歩き、次の下野宮駅までは予定通りの経路であったが、ここから道を間違えてしまった。私は細い山道に迷い込んでしまった。歩いても歩いても集落にたどり着かなかった。こんなことは今までなかった。やはり人生の進路に迷っている今の私は、旅でも道に迷ってしまうのであろうか。私の頭に「遭難」の2文字が浮かんだ。その直後であった。私のはるか前方に集落が姿をあらわした。私は疲れを忘れて集落を目指して必死に歩いた。ようやくたどり着いた集落の中の雑貨屋で冷えた牛乳を買って飲んだ。こんなにうまい牛乳を飲んだのは初めてだった。雑貨屋のおばさんに道をたずねると、やはり道を間違えたようであった。私はおばさんに道を教えてもらい、国道に出てバスに乗って本来の目的地ではないが、同じ「磐城」を冠する磐城棚倉駅に到着した。磐城棚倉駅のホームで郡山行の列車を待つ間、今度は本来の目的地であった磐城石井駅を訪れたいと強く思った記憶がある。

 郡山行の列車に乗ったが、道に迷ったため予定時間を大幅に過ぎていたので、途中で日が暮れた。お盆の最中ということもあり、沿線の集落では盆踊りが行われていた。小学校の校庭に提灯がともり、大人も子供も輪になって踊っていた。私は実家の両親のことを思った。この日の夜は郡山のビジネスホテルで泥のように眠った。

 この旅から帰った日、私は実家に電話し両親に転職をやめることを伝えた。母は電話口で泣いていた。

 

 人生の岐路に立っていた28歳の私。今から思えばそこまで悩むことはなかったと思う。私のその後の人生ではもっと辛く過酷な体験をすることがあったからであるが、あの当時の自分が今は理屈抜きで愛おしい。

 

 

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常陸大子駅に停車中の列車)

 

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(下野宮駅→ここまでは順調だった)

 

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(道に迷いながらも福島県に入った)

 

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(1986年8月14日撮影)