HHD’s blog

線路のある風景

旧国名の付く駅を訪ねる旅(摂津本山駅)

摂津本山駅

 私の旧国名の付く駅を訪ねる旅の最後になったのは私の生まれ故郷である神戸にある摂津本山駅であった。前回の駿河小山駅から5年近くの歳月が流れていた。もっと早くこの駅を訪ねて、私の旧国名の付く駅を訪ねる旅を完結させたかったのだが、私には最後となるこの駅を訪ねるためのあるこだわりがあった。それは私の結婚相手と一緒にこの駅に行きたかったのである。

 ようやく結婚が決まり、この日は結婚式の前日であった。本来であれば私は結婚相手の女性に連絡して一緒にこの駅に行くはずであった。しかし私は結婚相手の女性に連絡をしなかった。なぜしなかったのか、明確な理由は今となってはわからない。ただ私の心のなかで何かひっかかるものがあったのかもしれない。そんな私の悪い予感が現実のものとなり、この結婚はわずか半年で終わりを迎えた。

 あれから30年近くの歳月が流れた。現在、この駅は私が通う透析クリニックの最寄り駅となっている。ほぼ日本全国を巡ったこの旅の最後の駅が、今では私の生命を維持してくれるための貴重な交通手段となっている。そしてこの駅から又、新しい旅に出ようと私は今考えている。

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 (1991年11月30日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧国名の付く駅を訪ねる旅(駿河小山駅)

駿河小山

 この駅は以前に1度訪れている。しかしその時は、旧国名の付く駅を訪ねる旅を始める前であったので写真を撮ることはしなかった。そのため写真を撮るためにこの日、再度訪れた。天気は良かったが寒い日で線路わきにうっすらと積雪が残っていた。

 この旅の約3ケ月後、国鉄は分割民営化しJRが誕生した。この旅は私の国鉄最後の旅となった。

 

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駿河小山駅ホーム)

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(1987年1月15日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(豊前川崎駅)

豊前川崎駅

 前日の夜は久留米で泊まった。この日は久大本線の列車で夜明駅まで行き、日田彦山線の列車に乗り換えた。添田駅でおりて目的地の豊前川崎駅を目指し歩いた。添田駅の構内は広く閑散としていた。この時には、北海道の美幸線と並んで日本一の赤字ローカル線と言われた添田線はすでに廃止となっていた。豊前川崎駅まで約5㎞を歩いたのであるが沿線の風景は覚えていない。豊前川崎駅から分岐する上山田線は、この時点ではまだ廃線となっていなかった。

 この駅が九州地区の旧国名の付く最後の駅となったが、地味であまり印象に残っておらず、さびしい幕切れとなってしまった。

 

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添田駅構内)

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豊前川崎駅改札口)

 

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(1986年11月6日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(筑後若津駅)

筑後若津駅

 筑前宮田駅から列車を乗り継いで佐賀線の起点である瀬高駅から佐賀行の列車に乗った。時刻はすでに17時前であったような記憶がある。しかしどうしても1駅歩きたかったので、私は筑後大川駅でおりてこの駅を目指して歩いた。少し速足で歩いたが、筑後若津駅に着いたときには夕暮れが迫っていた。私は急いで筑後川にかかる鉄道可動橋の写真を撮った。夕景の可動橋は美しかった。

 佐賀線にはもう一度乗ってみたかったが、私が訪れたわずか4ケ月後、国鉄分割民営化の直前となる1987年3月に廃止となってしまった。

 

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筑後若津ー諸富 筑後川にかかる鉄道可動橋)

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筑後若津駅ホームからみた筑後川鉄道可動橋)

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(1986年11月5日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(筑前宮田駅)

筑前宮田駅

 この当時、東京本社での仕事はハードで毎日深夜までの勤務が続いていた。私は体調がすぐれず、尿に血が混じるようになった。前から気にはなっていたのだが、一度、腎臓の組織検査をするために私は休暇をとって神戸の実家の近くの病院に入院することになった。入院の手続きが少し手間取り、実際の入院まで1週間ほど時間が空くことになった。私は躊躇せずこの時間を利用して旅に出ることにした。もちろん会社には内緒であった。

 この旅の目的は九州に残る3駅を訪ねることだった。しかし本来の旅のための休暇でないため、会社に対して少し後ろめたい気持ちがあったためか、心から旅を楽しめなかった。

 この旅で最初に訪れたのが宮田線の終着駅である筑前宮田駅だった。筑豊本線勝野駅から宮田線の全線5.3㎞を歩いた。沿線の風景はあまり覚えていないが、九州の11月は気候的に暑くも寒くもなく歩くのにはちょうど良かった記憶がある。そんな宮田線であったが、1989年12月に廃止となりもう乗ることはできない。

 

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筑前宮田駅の駅舎)

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筑前宮田駅に停車中の単行気動車

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(1986年11月5日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(相模金子駅)

相模金子

 この日は新宿から小田急線に乗って新松田駅まで行き、そこから目的地の御殿場線相模金子駅まで歩いた。約2㎞を歩いたが、沿線の風景等ほとんど覚えていない。30分ほどで到着した相模金子駅は、一面ホームにさび付いた駅名標があるだけの簡素な無人駅だった。そして私はこの駅から国府津行の電車に乗ったのか、御殿場方面行の電車に乗ったのかまったく覚えていない。

 

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(1985年10月10日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(信濃浅野駅)

信濃浅野駅

 初めて乗る飯山線であったがあまり車窓風景を覚えていない。ただし、途中の森宮野原駅は、1945年2月に国鉄の駅での最高積雪量(7m85㎝)を記録していることは知っていたので興味深かったこともあり、この駅に着いたときには周りを注意深く観察したが、訪れたのが5月だったので実感が持てなかった。

 本来であれば越後田中駅から信濃白鳥駅までを歩きたかったのであるが、13㎞とやや距離が長かったこともあり、時間的にその日のうちに大阪に帰ることができなかったため、信濃浅野駅から次の豊野駅までの約2㎞を歩いただけとなった。しかし、5月の信濃路の風は心地よかった。

 

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(誰もいない信濃浅野駅前広場)

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信濃浅野ー豊野 を走る飯山線の列車)

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(1985年5月19日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(肥前山口駅)

肥前山口駅

 宮原線に乗った翌日に訪れているが、前日どこに泊まったのかも覚えていない。駅のホームで撮影しただけで下車した記憶はない。

 

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肥前山口駅に停車中の特急「かもめ」)

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(1983年5月1日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(肥後小国駅)

肥後小国駅

 宮原線は予想以上に良い路線だった。同行者は同じ歳のH君。途中、宝泉寺駅で下車し、近くにある温泉に入り、沿線をできる限り歩いた。麻生釣駅は高原の開放的な無人駅だった。宮原線の全線(26㎞)の約半分を歩いたので、終点の肥後小国駅に着いたのは春の日が少し傾き始めた頃であった。16時台の最終列車でこの駅を後にした。乗客はH君と私の2人を含めて数人しかいなかった。そしてそれから約1年半後の1984年12月に宮原線は廃止になってしまった。廃止になるまでに乗ることができて良かった。私の体力がゆるせば、廃線跡を歩いてみたい。H君はそんな私に付き合ってくれるだろうか。

 

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(北里駅ホームに停車中のキハ40)

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(肥後小国駅ホームに入線する16時台の最終列車)(1983年4月30日撮影)

旧国名の付く駅を訪ねる旅(豊後中村駅)

豊後中村駅

 ゴールデンウィークの休日を利用して、九州へ旅をした。同行者は同じ歳のH君。早朝の豊後中村駅で撮影しているが、大阪からこの駅までどのような経路で来たのかは覚えていない。寝台列車に乗ったはずであるが列車名も記憶にない。豊後中村駅は晴天に恵まれたこともあり、さわやかな九重高原の玄関口の駅であった。

 

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(1983年4月30日撮影)